がくしゅうちょう

書いて残す

やさしいひと

 

私があの夜、確かにうけとったもの
やさしい言葉とやわらかいひだまりみたいな眼差し 手のあたたかさ あなたと離れるのは寂しい と流してくれた涙が 今も確かな温度で私の中にも流れ続けている

 

私の生きた時間を4倍したって届かないその年月を生き抜いたあなたから何気なく零れ落ちたことばや仕草が、悲しみや寂しさの瀧をきっといくつも潜り抜けてきたことを証明していたように思います
私たちは何度顔を合わせても、いつもはじめましてだった
あなたは私の名前を覚えられない だから私は何度も名乗らなかったけれど、いつもちゃんと私のことをみてくれていた
学生じゃなくなってしまった、もう社会人なんだし、子供じゃいられない と悟った大人の顔を不器用に作ろうとする私のその青さを 慈しむようなやわらかい眼差しで いつもあなたは見つめてくれていたのではないでしょうか

 

お別れする前 あなたは裏の白い広告とマジックペンを私に渡して こうおっしゃった
“あなたの名前と住所をここに書いてちょうだい 私はすぐに忘れてしまうから 忘れないようにここに書いて”
きっと書いても忘れてしまうだろう でもいま目の前に確かにいるあなたがこうして私のことを思ってくれていることがなによりも尊いことに思えた
私は自分の名前を大きな文字で、よみがなもつけて、住所は町の名前だけ、そして最後にまた必ず会いましょうね と書いてあなたに渡した
私の下の名前を声に出して読んで かわいい名前ねえ と、褒められたのは私のほうなのに なぜかあなたはとても嬉しそうに笑ってくれた

 

あの広告の切れはしも今あなたの手元にあるのかどうかわからない 手元にあったとして、それに書かれた名前と、私の顔や一緒に過ごした記憶があなたの中に残っているか わかりません
けれど、私は忘れない
私は覚えておくことができる 幸いなことに
あんなにあたたかくやさしい言葉やきもちをもらったこと 一生失くすものかとあのとき心に決めました

 

あなたの部屋にある旦那さんの写真に供えていた飴やらチョコレートやらを、なにか形見になるものがあればよかったんだけど と言いながら丁寧に包んで渡してくれた、あれは未だに大事にしまってあります そろそろ夏だし溶けてしまわないか心配だけれど

 

また会いましょうと手を握り合った その “また”が来る可能性というのはどれくらいあるのか そんなことを思う
あなたはあとどれほどの時間を生きていてくれるのか 私はあとどれほどの時間を生きていられるのか
もしあなたが私の知らないうちにこの世界からいなくなってしまったとして 私に知らせが来ることはきっとない
また会いましょう の約束は宙ぶらりんで私だけが握りしめて生きていくのかな
先のことは考えたってわからないのですが


私は今という時を生きていて 幸せです、そのなかのいくらかはあなたがくださったものです

私のことを忘れてしまわれていても平気ですがただ、どうかあなたも、幸せでいてくださいますように

 

いつか必ずまた、会いたいです

 

会いたい

 

 

夜中に食べるアイス

 

自分にとって大切なこと
子供かよとか大人になれとか言われてもそろそろそういうのはちょっと、とか言われても。そろそろって何だよ

ものすごく大切だった人と何年か経ってお互いに前と同じようにはいられなくなって
でも確かにあのとき私はあの人をあの出来事をそれはもうとっても大切にしていたということを覚えている
覚えているし、
大切にすると 別に誰に宣言したわけでもないけど自分で決めてそれを毎日毎日忘れないようにして、うっかりどこかに置いてこないようにして、今日まで守ってきた という自覚がある
別にそんなこと意識してやってなかったんだけど最初は
でもそうしなきゃだめなんだなとどっかで思ったんだろう  忘れちゃうから  忘れてないよって言われても私が あ、忘れてるって思っちゃったら それはもう忘れてるんだよお前は って 私は思っています
もちろんそれは誰かに同じように思われてる可能性があることも知ってるつもりでいる

そういうの許せなくて
そういうのっていっても色々あるんだけど
もはや何の話をしてるのかわからないけど
大切なことってなんだよお前のその話す言葉
ブレ過ぎてんだろ

とにかく
うれしかったことかなしかったこと(もうこのことに関してはこれ以上ごちゃごちゃ言いたくないので簡単なことばでまとめる、じゃあもう最初から黙っとけとはおもう)、誰かに自慢するのももったいなくて、涙と一緒に人前に晒すのもなんだか違うような気がして、言葉にしないまま誰にも話さないと決めて私の中だけでずっと動いてる記憶、今ではぜんぶ物事を判断する為のこころの軸になっている ずっと持ち続けていられるようにしたい

だけど誰にも話さないと決めたこと、そう決めた時からほんとは誰かに聞いてほしい肯定してほしいと、ずっと叫び続けているような感覚があることはある
だから音楽を聴いている
ああひとりでは生きられない
こういうときにおもう
ひとりで抱えきれないと思うときもある
みんなそういうことを持って隠して生きてんのか、大変だよな言えないこともあるよな

音楽をきいたりおいしいものを食べたり、今の私があの時の私と同じように、あるいはそれ以上の濃度で大切に思っている人たちと会って話をしたりして、なんとかかたちを保って生きている(でももう、あの時のあの気持ちに敵うものは)

 

もっとちゃんと生きたい 強くなりたいしできれば優しくもありたい 憧れのあの人素敵なあの人のように、あんな人をお手本に生きてみたいという向上心はある
まだ生きていられる
私は大切なことをずっと忘れない

 

 

天気はいいけど風がつよめ

 

年が明けてから倉敷に行ってみたり友達と広島にいってみたり、なにか形にして残しとかなきゃなと思ってはいたけど、そのときのことを思い出すとなんだかどうも気持ちがザワザワしてしまってじっとしたまま文字を打ち込むという行動に向かうことができず、結局自分で撮った写真と断片的な記憶だけが私の手元に残っている。ほんとうに私はものを作り出すということに向いていないんだなあと残念な気持ちになるのと同時に、なんだか妙に納得している自分がいることに気付く。

 

広島にはまた行きたいな。とても素敵なゲストハウスを見つけてしまって、地元に帰ってきてから約1ヶ月間そのことばかり考えている。一目惚れみたいな類のことはしたことないけど、きっとこういうことを言うんだろうな。泊まってみたいなあ。近所のおばちゃんに縄跳びの縄を回してもらうのをねだる小さな子供たちの楽しそうな声の横をまた歩きたい。あの商店街にまた行きたいな。あんなに静かに過ごせたのは平日だったこともあるんだろうなあ。仕事の都合で今すぐには行けないので、どのタイミングで休みをとるかが重要だ。よし。

 

 

仕事といえば、広島から帰ってきた次の日は再就職した介護施設への初出勤だった(再就職なので細かく言えば初出勤ではないけど)。

一度やめてしまった職場だったのでなんだか申し訳ない気持ちで出勤していた。でもみんな優しくしてくれてどうにか馴染めたと思うし、今ではすっかり1年半前働いていたときの感覚が戻ってきている。

 

仕事が楽しいというとまたすこしニュアンスが違うなあと思うんだけど、心が荒んだり酷く沈んだりすることもなく、わりと穏やかな毎日をすごしている。1年半前も同じことをしていたし同じ私なのに、そのときとは全く違うことを感じる。

 

1年半前と今とで違うことは、想像することが多くなったことだと思う。

今の職場では、色んな利用者様やその家族様とお話をする。利用者様の中には、世話をする家族の方が忙しくて施設に預けざるを得ないという方もいれば、複雑な家庭内の事情を抱えて入所や宿泊をされる方もいる。

昨日、ある利用者様が新規で宿泊された。最初はこちらの言葉掛けに頷く程度で、発語が難しい方なのかな、と思った。それでも体調を伺ってみたり介助の際に言葉掛けを続けたりして、職員はあなたを気にかけていますよということを何度も伝えるようにしていると、すこしずつその方のほうからお話してくれるようになり、(この場で詳しく書くのは省くけど)持病もあり家族も色々と忙しく、前にいた病院では寂しさと不安で息をするのも苦しかったと話してくれた。私が退勤する直前に、「ここにいると安心するわ、ここの人みんな優しくしてくれて」と言ってくれて、それがあまりにも心からの言葉だったので私はなんだかそれだけで泣いてしまいそうになった。

すべての人にそうすればいいとは限らないけど、こちらの問いかけに反応が返ってこずあまり人と話したくない方なのかなと思ったときにそこで距離を置いてしまわなくてよかったと、退勤後帰り道の車の中で思った。きっと1年半前の私なら、すぐに距離を置いてしまっただろうなあ。

想像力が必要だと思った。今の仕事をする上では職員が自分のことで精一杯になってはいけないなあと、今になってやっと思えたし、それはべつに仕事に限ったことではないんだろうなあ、とぼんやりと考える。

 

穏やかな毎日を自分が過ごせていても、かなしいとかさみしいとか、そういうものがいつもすぐ側にあることに対して鈍くなりたくはない。今のあたたかい職場に戻ってきてから、ぬるま湯に浸かるとはこういうことだな、と、ほんとうにそういうことを思うようになった。ここに戻るすこし前に私がいた場所には刺すような光や深い闇みたいな人やものが混在してるようなところだったから、なにかと敏感にならざるを得なかった。

 

鈍ったらだめだと常に思う。私は小説家でも芸術家でも音楽家でもないから、鈍ったからといって良い作品が作れなくて困るなんてことはないけど、ささくれ立つようなあのどうしようもない心の感じ方を私なりに知っているつもりだからだ。凝り固まった考え方で頑固になるわけではなく、そういうことを知っている自分の中の芯を信じてみたい。生きることに関して下手だし不器用だしほんとうに自信がないけど、自分なりに。

 

仕事をすることも旅行に行くことも、今はその為なんだと思う。素敵なものに出会って、嫌いなものをたくさん見つめて、結局は私だけが満足するんだろう。でもたぶんそこには、私の大事なひとたちのことも含まれてる。

 

 

 

 

あと普通に、

奨学金を完済するために、馬車馬の如く働こうとおもいます。

 

 

(-ω-)

 

 

 

ひとのいやがることはしない

 

さっき、男女差別とか男女平等社会についてテレビの番組内で討論されているのをみた。正直、バカバカし過ぎて呆れてしまった。なんだかいろんなことを考えてしまって悲しくなる。

 

そりゃあそういう差別で苦しんでいるひとがいるなら助けられるべきだし、周りは手を差し伸べるべきだけど、そもそも言葉なんて受け取り方感じ方次第なのに、なんで当事者じゃないひとたちがそこまで騒ぎ立てる必要があるのか。

というよりああいう場で発言できるひとは、そこまでそのことに関して被害を受けていないひとばかりだと思う。

 

最近どの討論番組をみてもなんだか最終的に話の論点がずれてきて結局何がしたかったのかよくわからないまま、あたかも解決したような雰囲気だけ醸して終わるものばかりな気がする。

 

その番組で発言していた女性は、「“女のくせに”とか“女性なのにすごいね”とか言われると不快です」と言っていた。私個人としては、どう考えても過敏になりすぎているとおもう。

“女のくせに”というのに対して不快に思うのは、まあ分からんでもない。だけど“女性なのにすごいね”というのに関しては相手は褒めているわけだし、言葉の選び方の問題であって、不快に思うことなんてないと思う。「〜のくせに」というのは、べつにそれが女性だとか男性だとかじゃなくても誰だって不快に感じるはずだし。それに「女性だから」ということが「差別だ」という認識があることを知らなければそもそも不快だなんて思わないんじゃないか?それこそ、性別に関係なくいろんなことに関して差別はあるし、もともと人間の社会って他人との優劣を常に気にして生きていくもので、自分より劣っていると感じたものを見下さないと生きていけないのは普通のことだから、その対象がたまたま「男性からみた女性」だっただけでしょう、と。ではたとえば、「若いのにすごいね」とか「還暦をすぎたのにお元気ですね」とかも差別になる?発信者の本来伝えたかった気持ちは無視されて、言葉を慎めと責められる?相手を気軽に褒めることにすら心をすり減らさなければならなくなりますか?まったくよくわからない。やっぱりその対象に偶然「性別」が当てはまった時の言葉の響きとか、受け取り手の気持ちの状態に左右されているだけだ。

 

こんなによくわからなくて曖昧なことだらけなのに、法律とかであれこれ決まりさえ作って違反したものを罰すればなんとかなると、みんな本気で思ってるのかな。ばかみたい。ひとりひとり受け取り方はちがうのにひとつの法律でそれはもう細かく細かく縛り付けるから余計な不満がどんどん増える。もう、世の中の法律なんて、「人の嫌がることはしない」これだけで充分じゃないかと思うんですが...。

 

なんだか最近ネットでもテレビでも、他人の発言に対していちいち過敏になりすぎている。私もまんまとその罠にはまっていて過敏に受け取りそうになり、まずいまずい、と思考にブレーキをかけなおすことが多い。そもそも誰もが1人残らずいい思いができるわけがないなんてことは21年ちょっとしか生きていない私のような小娘にでも分かる。そりゃあみんながいろんなことに対して不快に思うことのない世界ができればそれにこしたことなんてなにひとつもないし私自身それを望むけど、そんなことができるならもちろんそんな討論で声を荒げる必要もなければ、自殺やいじめや、テロだって戦争だってとっくにないはずだし。発言は個人の自由だ、と声を荒げるひとがいる裏で、その大声にかき消された小さな声で叫ぶ人の自由が無視されてしまっている可能性だってあり得る。結局そんなもんなんだから。みんながみんな分かり合えるわけがないんだから。

 

だからって、みんなが幸せに過ごせることを諦めようってわけでは全くない。SNSとかの普及で情報過多になりすぎて、気にしなくてもいいことばっかりを気にし過ぎている。「顔も声も知らない、どこかにいる不特定多数の誰か」のことばかり気にし過ぎている。私もそうだと思う。だからもう、ただ、自分の近くにいる自分の大切な人のことだけ、ほんとうに幸せにしてあげたらいいんじゃないかなと思う。どうにもわかりあえない相手を攻撃してプラスになったことなんか今まで何ひとつなかったし、これからもないはずだ。

 

性別の関連でいえば、女男の問題だけではなくて、ゲイ、レズビアンバイセクシャルトランスジェンダーとか、私にもよくわからないカテゴリーが細かく存在している。最近、自分のことを話すとすぐ周りにカテゴライズされてしまう。その人はその人でしかないのに。そのカテゴリーに自分を入れることを上手く使えばコミュニケーションの良い入り口になることは確かにある。でもあまりにもそれに縛られると、何かの中に分類されてそれでもやっぱり微妙な違いに居心地の悪さが生まれ、差別だのなんだの、結局言い出すことになる。実際、被害を受けた側が自分で自分の首を絞めていることは稀じゃないと、私は思う。

 

私は私の考えで生きていくけど、意見の違う相手を攻撃しようとは思わない。分かってもらえなくて当然だから。自分以外の誰の気持ちもどう頑張ったって分からないし、分からないからなんとか少しでも近づきたいと思うし、そういうところから優しさとかは生まれるんじゃないかなと思う。こんなちいさい人間ひとりが助けられるものなんてほんとうに限られた数でしかないはずだしなあ。

 

ほんとうに大事なものは人は何だったか誰だったか、早く思い出さないと、たぶん取り返しのつかないことになっていくと思う。

 

難しいなあ。いや、たぶんほんとはもっと単純なはず。自分自身、完全に思考の泥沼にはまってしまっている。

 

私の大切な人たちが、どうか幸せでいてくれますように。

 

 

 

 

 

 

2016.12.29 にせんじゅうろくねん

 

ちょっと更新しないうちにいつのまにか年の瀬になってた。ライブも何本か行ったし、大好きなバンドのライブBlu-rayも発売されたしでたくさんのものを身体に取り込んだのに、その事実だけで満足しちゃっていました。このブログ作ってからちゃんと残そうと思っていたんですけどね、こういうところがだめですね。

 

もう2016年も終わってしまうそうなので、すこし振り返りのようなことをしておこうと思います。

 

こんなにだめでどうしようもない私みたいなやつでもいろいろとやってみたいことなんかが結構あったりして、だけどやっぱりだめなやつだという自覚を捨てきれなくて今までずっと いつかやろう と後回しにしてきたこと、かなりあったんです。でも、2016年は実際に行動に移すことにわりと挑戦できたかなあと思っています。

 

自分のやりたかったことを仕事としてやってみる。行く先々の新しい環境で出会った人と関係を築く。昔からの友人とより深くお互いの話をする。だいすきなバンドのライブに行く。

この数ヶ月で色んな新しいものや人と出会って、それからそれとおなじくらい、今まで自分がもっていたものをよく見つめてみました。そうしたらこれまでの自分で雁字搦めにしてた常識がどんどん形を変えて、気づけば自分がもう昔とはまったく違うひとになってしまった気がしています。

あんまりそういう自覚はなかったけど、この前懐かしい人に久しぶりに会ったら「なんか話し方が変わったね」と言われてしまったりして。場所が変わるとやっぱり、人も変わってしまうんだな。でも、変わらざるを得なかったな。

 

高校の頃面白くて個性的ですごくだいすきだった友達は、卒業後3年経った今ではいわゆる“量産型女子”と化していて、なんだかさみしかった。本人は変わったつもりはないんだろうな。前の方がすきだったよ。

 

そういう自分はどうなのよ。

 

挑戦してみたら怖いことばっかりで、あんまりこういうこと言いたくないけどわりと傷だらけになっちゃうこともあって、それでも周りの力を借りながら頑張って直したりしたし、今まで持ち合わせてなかった強さを自分の中に取り込めたかな、とは思う。だけどそのぶん新しい弱さに気づいてしまったし、うまくいかないことはどうしたってうまくいかなかったりして、ずっと死にたいし、つらいし、性格は暗いままだし、やっぱり結局は何をしたって変わらないのかもしれないです。

 

それともうひとつ気づいたのは、私がどんなふうにふるまってもすきでいてくれる人はすきでいてくれるんだな、ということ。これを身をもって体感できたのは大きな収穫だったと思います。案外、人は人のことをそう簡単に嫌いになったりしないんですね。自分は心広くありたいと思っていたけど、心の広い狭いにとらわれて雁字搦めになってたのは私自身でした。気付けてよかったね。

 

何に憧れて何をしたって、結局自分は自分でしかない。いろんな歌や本に出てくるお話、世間で言われ続けてること、その通りだと思うけど、私は不器用だから、実際にこの体で乗り込んでいって怪我をして直してってしないと、どうしても納得できなかったのです。今、やっと納得できた。

 

年が明けたら、学校を辞めて元の仕事場に戻ります。周りからしたら後戻りしたように見えるかもしれないけれど、私にとっては立派な前進です。ここまでくるのにたぶん近道はあったんだろうな、でも、たぶん間違ってないんだろうな。私が汗まみれでぐちゃぐちゃになってやっと踏み出す一歩を器用な人はいつも私の眼の前で何の気なしにやってのけるけど、やっぱりできないんだそういうのは。不器用でもどうにかこうにか生きていくしかないんだな。

 

そんなこんなで、次、いきます。

 

 

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レディクレ2Days行きました。

2016年締めは、ハイエイタス!

来年もよろしくお願いします。

 

 

 

2016.11.3 須磨海水浴場

 

旅行記ってほど大袈裟ではないけど、今日行った散歩のこと。

 

私は散歩がだいすきなんだけど、このところ学校や研修でずっと忙しくてのんびり歩きまわれる時間がなく、今日が祝日で学校がないということを知ったのも今週に入ってからだ。学校がある日に研修を入れるときは公欠を取らないといけないのがめんどくさくて基本的に週末にしか研修をいれていなかったので、平日と思い込んでいた今日は学校も研修もない、完全な休日になっていた。

 

これはもう、散歩に行くしかない!!

 

近頃ずっと行きたいと思っていた場所があった。いつも学校へ通うために片道1時間半電車に揺られる、その車窓から見える海。

その海を電車の中から眺めるのがだいすきで、たとえ満員電車でもできるだけその景色が見える方の窓際に体をすべり込ませ乗車する。

陽が沈んだあとの海は真っ暗で遠くに浮かぶ船の灯りだけになってしまうけど、晴れた日の朝から夕方にかけて車窓から見るその景色は、それはもうきれいだった。特に朝の早い時間が良い。朝陽に夜が溶けだし空と海との境目が曖昧になって、何色とも言えないような。暴力的なほど慌ただしく過ぎる1日のはじまりに、その景色を眺める数分だけは別の空間だった。

 

次に休みがあったら絶対この海に朝陽を見に来ようとずっと思っていたので、今日の休日の使い方はすぐに決まった。

早朝4時半起床。顔を洗って着替えを済ませてから、胡桃のパンとチーズのホットサンドを作った。朝焼けを見に行くんだ、と昨日の夜からわくわくしていたこともあって、今朝の朝ごはんはいつもよりおいしく感じた。

朝の海は寒いだろうから厚着をして、それでも寒いと思った時に温かい飲み物があるととっても良いなあという妄想をこのところずっとしていたから、水筒にあつあつの紅茶を入れて持っていくことにした。(すいとうって、べんりだなあ。)

 

家を出たのは6時。自宅の最寄り駅から電車に乗って、目的地に着いたのは6時半過ぎだった。日の出の瞬間は少し逃してしまったけど、それでも下車してすぐに見えた念願の朝陽にうれしさが込み上げた。

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 早朝でもわりと人が集まっている。海岸沿いに少し歩くとある海釣り公園で釣りを楽しむ人、砂浜でトロンボーンを吹いている人。犬とボールで遊んでる人もいた。大きくて優しい表情をしたゴールデンレトリバーだった。

海岸に沿って歩いているうちにどんどん太陽も昇ってきて、ぴんと張り詰めていた冷たい空気も(温かい飲みものを持ってきて正解だった)微かにあたたかさを帯びてくる。

 

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いつも乗る電車が走る線路と海岸とを分ける高い壁と、空↓

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ひとしきり海を眺めてから海岸をあとにして、3駅ぶんほどの距離を1時間とすこしかけて歩いた。

国道沿いをずっとまっすぐ歩いているあいだ、すれ違うのは今月開催されるらしいマラソン大会の練習に励むランナーや、釣り具を抱えた人。必要以上に慌ただしく歩く人も騒ぎ立てるものもなくて、私の歩くはやさに寄り添うみたいに時間が過ぎていくのが心地よかった。

途中で広い庭のある家の前を通りかかって、そこにはさっき砂浜で飼い主とボール遊びをしていたあのゴールデンレトリバーがいた。優しい表情が印象的だったからすぐにわかる。心の中で挨拶をしてから、その家を通り過ぎた。

国道沿いの歩道を歩いているときもずっと海がみえていて、高台でみた地平線にこの星のかたちを思った。

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最近、私はうまく喋ったり言葉をつかったりできないから、ひとりで行きたいところに行って自分の感じたことは自分だけのものにしておくほうがいいのかもしれないと、諦めに似たような気持ちになることが多くなってきている。

でも今日みたいに大きく心が動くような景色をみられたりしたときに、このきもちを共有したいと思える人がいることは幸せなことだ。そんなときに顔が浮かぶ決して多くはない何人かを大切にしていきたいし、あわよくばそんなふうに思える人がこれからも少しずつ増えていけばいいなあと思った。

 

次の休みにはどこにいこうかなー!

ベタだけど紅葉とかみにいきたいなあ。

 

 

  

 

2016.9.30 the HIATUS Hands Of Gravity Tour 2016 final

 

ハイエイタスのツアーファイナルでした。

 

ほんとに、ほんっっとうに楽しかった!!

今まで行ったどんなライブよりも。

単純に、あんなに安価なチケット代であそこまでの体験ができることは、やっぱり並なことではないなと思った。

 

細美さんの言葉は、すごいなあ。あの声で耳に届く言葉たちに圧倒される場面がなんどもあった。それは私が触れたことのない重さと熱量で、地の底にあるマグマみたいな、しずかな灼熱だったなあと思う。

 

個人的にSilver Birchと紺碧の夜にをどうしてもライブで聴きたくて、でも今回のアルバムに入ってる曲じゃないから聴けないかなあと思っていたんだけど、両方とも聴くことができた。

ファイナルだから特別なことを、ってやってくれたSomething Ever Afterも、アンコールのいちばん最後のGhost In The Rainも、曲の最初の一音が耳に飛び込んできた途端に幸福感が身体中を走って、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。嬉しくて楽しくてたまらないのに、それと同時にどうしたってさみしかった。

どのライブに行ってもそのお祭りの終わりを思ってさみしくなるのはいつものことなんだけど、ハイエイタスのライブはそのさみしさの色がほんとうに濃い。それはもちろん曲がもつ独特の温度によるものだし、個人的には初めてのワンマンがツアーファイナルだったということもあって、初参戦にして終わっちゃうのかあ、、という物理的なさみしさでもあった。

 

音楽や言葉に対して恋い焦がれるような思いを常に、それはもう呪いのように抱いていて、いろんなきもちをどうにか形にしようとしたりなんかするけど、なんだかやっぱり、いざ目の前にするとどうしようもなくなってしまうんだなあ。

 

細美さんの言葉はやっぱりちゃんと43年間生きてきた人の言葉で、同じことを私や私と同じ年数生きてきた人が喋ってもきっとあんな風な響き方なんてしない。絶対に。

きっと彼らの音楽は、私の目の前に立つその足元に辿り着くまでにたくさん遠回りをして、そのなかでたまに近道をみつけたりして、そんな冒険の軌跡を凝縮させた塊なんだろうなと思う。

私は最短距離を行くことがどうしても苦手で、どうしても遠回りをしてしまうところがある。不器用なだけということももちろんあるけど、近道を探すよりも遠回りしたときにみつけたものに価値をみてしまう。自分が目指すところに行くには致命的なことだなあと落ち込んでいたけれど、やっぱりそう悪いことでもないよなあ、とも思う。悩んで迷って苦しむことが圧倒的に多い毎日を過ごしているけれど、なんだかもっとシンプルに生きたほうがいいような気がしてきた。うまくバランスをとるにはどうしたらいいのかな。誰も教えてくれないしな。今は音楽を聴くことくらいしかできないな。

 

細美さんがくれた言葉、敢えてここには書かないけど、数としては決して多くはない、とってもとっても熱くて密度の高いものをもらったようなかんじ。私がいうとほんとに安っぽくなっちゃうなあ...笑

 

本音を言えばやっぱりあのライブハウスの中にずっと居たかったと思う。いつまでもいつまでもあの音楽に包まれて幸せなきもちでいたかった。あんな世界で生きていけたら。大好きなアーティストのライブに行くといつもそんなことを思ってしまう。自分にとってのあんな空間を探して生きていったら、いつか見つかるのかもしれない。わからんけど。

 

さみしいから、また会いに行こうと思う。

会いたい、だいすきな音楽に、言葉に、人に。

会いたいよー!さみしい!

 

年末にかけて毎月ライブの予定があるから幸せだなあと思う。ちゃんと生きようね。

 

 

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