がくしゅうちょう

書いて残す

今日の日記

最近、最近ていうかまあわりと前から急に寒くなって、日が照ってる時間もたいへんにみじかくなってしまった。季節性鬱というものがあるらしいけどもしかすると私もその厄介そうなものをうっかり持ち合わせてしまっているのでは、というほど気分が落ち込む。季節性鬱は一説によると冬に日照時間が短くなって、太陽の陽を浴びなくなることで体内のサイクルみたいなものが乱れることによって起こるらしい。そういえば最近陽に当たってないな。

私は介護の仕事をしていて、働く時間のパターンは主に早出、遅出、夜勤の3つ。冬場の早出は日が昇る前に出勤し日が落ちきる寸前くらいに退勤、遅出は昼間に家を出るけれど今から出勤かあ〜というすこし重い気持ちで職場に向かいもちろん退勤時間にはとっくに日が暮れている。夜勤は言わずもがなだけど夜通しひとりぼっちで業務をこなさなければならないので、勤務中の自分の鬱っぽさったらない。そう思えばやっぱり陽を浴びる時間はその他の季節に比べて格段に短くなってしまっている。夜勤中、鬱さが振り切ってしまって「精神科に行きたい!!!たすけて!!!」みたいになのが深夜の2〜3時くらいにピークで湧きあがることがあるけど、なんだかんだで乗り切って日が昇り、退勤するともう眠気と日勤者に無事仕事を繋げたことに対する安堵とで結果どうでもよくなってしまい、家に着いたらそのまま泥のように眠る、みたいなかんじになってしまう。


仕事は楽しい。人と関わることはどちらかといえば得意ではないけどとてもすきだから、いまの介護の仕事は自分に合っていると思う。介護は給料が少ないと言われがちだけど、まあ実際そうだけど、私個人としては(家庭も持っていないどころか実家暮らしだし)それなりに満足している。


なのになんでこんなに不安なんだろう、と思うときがある。ときがある、というか最近はいつもそういう鬱屈としたことばかり考えてるような気がする。仕事はたのしいから職場ではわりとずっと笑顔でいられていると思うのに、その自分と真反対のところでずっとうずくまって動けないでいる、みたいな自分がいるのも感じていて、とくに最近はその2つの二極化が激しい。お互いが私を真ん中にして全く違う方向に歩いていこうとするから、いつか身体ごと真っ二つに分裂しちゃうんじゃないか、というヤバいことを考えたりもする。
明るい部分の自分と暗い部分の自分が、お互いを少しバカにしていることを私は知っていて、その状況を不安と思ってるのかもしれない。明るい方に傾いているときの自分は、暗い方をみて「なんだあんな鬱っぽくてうずくまって自分を悲劇のヒロインみたいにして、ウジウジ考えてる暇があるんならもっと動いてみろよ」みたいなことを言う。でも暗い方が幅を利かせてきたときには、もうすべてがまっくろになる。自分のことも見えなくなってるしもちろん明るいほうなんか眩しくて鬱陶しくて目を向ける気すら湧かない。がらんどうで無気力で、そのくせさみしいなんて思ったりするもんだから、誰か外に連れ出してくれないか、と思ったりして、でもそんな都合よく声をかけてくれるひとなんかいなくて、そんなことはじめから分かってるし、とか勝手にひとりで強がったりして、あげくまた落ち込む。我ながら不毛で滑稽で、かわいそうだなと思う。


なんでこんなにめんどくさいんだろういつからこんなふうになったんだろう。ぐるぐるぐるぐる、どうしようもないことを考える、考えてたら朝になって、また夜が来て、明日になって明後日になっていつの間にか1ヶ月半年一年と月日が経ってた、あれ、3日前のことかと思ったら2年半前じゃん、みたいなのがここ数年の私である。時間が経つのがはやく感じるようになるってのは大人あるあるみたいだけど、このことか。

大丈夫かよ、そろそろしっかりしないとだめだよなあ。もうじゅうぶん、大人って言われる年齢なのに。まだ22だけど。今年ハタチになりました!って楽しそうにしてる私より年下のひとたちのほうが、ずいぶん大人にみえる。たくさんのひととお酒をのんで楽しそうにしてて、親とか先生とかに感謝のきもちをちゃんと伝えてて。すごいなあ

 

今はとにかく、だいすきなクリスマスをだいすきな友達と楽しく過ごす、ただそれだけのために生きてるし、まあそんな感じでいいや、とも思っている。


焦るのはもうちょっと先でいいって、誰かに言ってもらいたい。ずっとこんなかんじでいたいし、はやくちゃんとした大人になりたい。

 

 

介護の仕事してるけど

 

そのひとにはたぶん、私には触れることができない痛みみたいなのがあって、それが傷なのかどうかもわからないけど、いやたぶん傷なんて軽々しいもんじゃないんだけど

 

私がいくら想像したって到達できないような、ふとした瞬間にそのひとをうしろからワッと羽交い締めにして、いろんなもの根こそぎかっさらっていってしまいそうな そんなぼうっとしたくらやみが広がっているのがみえるときがある
今日はまさにそんなかんじだったんだけど

 

声を振り絞ってなまえを呼んでも振り返らない背中とか、日を追うごとに崩れていく手紙の文字、虚ろなまなざし、の持ち主が、たとえばかつての大事なひとだったとして、一生添い遂げようと心に決めたひとだったとして、ちいさいときから自分をずっとみてくれていた、これからもずっとそうだと思っていた家族だったとして

 

忘れる、思い出せない

覚えてるのに、思い出せるのに

 

記憶が残っていかない世界 ってどんなふうなのかな ぜったいにこわいんだろうな
私は覚えているよ、と手を握っても、あなたのなかにはわたしが
いないかもしれない なんて

 

それが、どっちかがしぬまで続く なんて

 

死んじゃうんだな、ひとって
心臓がうごいてるってだけで生きてるわけじゃないのに

 

あんまりにもむずかしくて、むずかしくて

 

なにをいってんだろうな、とは思う
私にはただの仕事なのに

 

 

 

さむくなってきた

 

冬だ、ふゆがきちゃうなあ

 

仕事が終わりごみ出しで外に出たとき、思わず うわっふゆだ と口に出して言ってしまった。空気がつめたかった。金木犀のにおいも1年ぶり。なつかしい。忘れかけたころにちゃんと季節は巡ってくるからほんとよくできてるよなあ。思い出すのは去年のことのような、ずっと昔のことのような。幼稚園のとき、この時期になるとお母さんと一緒に園につくまでの道に金木犀の木が何本あるか数えながら歩いた。銀木犀ってのもあるよな。小さいころ、オレンジ色と白色の花をそれぞれ金、銀と呼ぶことに感心した記憶がある。

 

空気がつめたくなってくるとさみしくてたまらなくなるのは毎年のことだ。べつになんてことないんだけど。いつからそう思うようになったか覚えてない。いつからだったかなあ。さみしいさみしい、さみしいってずっと思い続けていたら、何に対してそう思っていたのか、そもそもそういうきもちを向ける対象があったのかどうかすら、なんだかわからなくなってしまった。かなしいわけでもない。かなしいんだったとすれば、誰かにはげましてもらえばなんとかなってしまうのかなあ。さみしいってのは、ほんとうにどうしようもないな。何が原因か、わからないし。

 

なんかたぶん、膨大な量の言いたいことがあるんだけど、何をどこに向けて言いたいのか、自分でもさっぱりわからない。喉までせり上がってきたそれが音になる直前で、どこに向かおうとしていたのかを忘れる。わからないとか思い出せないってのが、さみしいのかな。自分のまんなかにあるものを、ぴったりのことばで、誰かに言い当ててほしいのかもしれない。

 

外、あめ降ってるな。お向かいの家の金木犀のちいさい花たち、近いうちに散っちゃうかな。そしたら次にあの香りに再会するのはまた1年後だ。それまでにまたゆっくり忘れて、同じように思い出す。思い出す。おもいだす。

 

さむい。今日も仕事だ。
なんとかなりそう。
あめ、ちょっとやんでほしい。

 

 

2017.09.16.17 BUMP OF CHICKEN PATHFINDER@幕張メッセ

 

バンプオブチキンのライブに行ってきた。

もう、なんというか、言葉にできないっていうのはこういうことを言うんだろう、と思ってしまうんだけど、私の見た、感じたものがたしかに存在したことを残しておきたいので書こうと思う。


私がはじめてちゃんとバンプオブチキンのライブをみたのはWILLPOLIS2014のライブDVDだったんだけど、その映像は私にとって初めて出会う眩しいほどの美しさで溢れていて、まさに息を飲んで画面を見つめたのを今でも覚えている。何度も何度も繰り返しみて、あの場所に自分はいないどころか当時は彼らの音楽に触れさえもしていなかったことを、ひどくせつなく感じた。


今回のPATHFINDER幕張で演奏された曲の中にはWP2014のDVDの中で演奏されていたものもいくつか含まれていて、あれほど憧れた画面の中にあったあの空間とおなじくらい、いやそれ以上に素晴らしい光景のひとつに自分もなれたことは、何度体験したってうれしくてしかたない。

 

いくつもの突き上げられた腕のひとつひとつに光るPIXMOB、その上から音楽と共に降りそそぐ色とりどりのコンフェッティ。昨年のBFLYツアーでもみることができた、まるで天国のような景色。客席後方からみてもとっても綺麗で、なんて美しいんだろう、なんて幸せなんだろう。そんな多幸感ばかりが身体中を駆け巡っていた。

 

どの曲も、私を支えてきてくれたものばかりだった。彼らの演奏でイントロが流れはじめると、すがるようにその音楽で耳を塞ごうとしていた"あの頃の自分"が途端に顔を出す。音楽にすがりついてなんとか日々をつないでいたあの頃と、バンプオブチキンの放つ音楽をまさに全身で受け止めようとしている今この瞬間とが、たくさんのものを飛び越えて重なる。そこにはいつのまにか自分で集めてきていた大切な記憶や感情も含まれていることに気づいたりして、そんな胸がぎゅっとなるような幸せを心の中に映し出してくれた。

 

そして単純に、バンプオブチキンのメンバー4人が並んでそこにいる、ということに感動してしまう。その事実だけで涙が出てしまうほどに。まあ、ファンでない人にこんなことをいうと冷めた目でみられてしまうかもしれないけど笑。それでも、4人でずっと大切に歩んできた歴史をもつひとりひとりが今も欠けることなく揃って目の前に立っている、ということが、私にとってはとても重要なのだ。

 

バンプオブチキンのライブに行くと、ああ、これだこれだ、私の求めていたものは。と、いつもそんなふうに思う。もちろんその音楽や彼らのことがだいすきだからなんだけどそれだけではなくて、普段の生活の中で起きる心の摩擦やすり傷みたいなもの、それを持つ自分は間違っていなかったんだと思わせてくれるからだ。バンプオブチキンの音楽の中にいるときは、いつもよりすこしだけ自分のことをわかってあげられる。理想はあるのにそれになかなか近づけないでいる自分を受け入れて、ほんのすこしだけ褒めてあげられるような。
演奏中、まさにバンプオブチキンの音楽と私とは一対一で、それは私が私自身といつもどんなときも一対一であるのとおなじようなきがする。迷ったり間違ったりしたことに真っ直ぐ向き合って、正して、ときには認めて、そうやって自分の心を無くさないようにしてきたつもりだ。そんな心の働きをバンプオブチキンの音楽はそっと寄り添ってたすけてくれる。ライブのときにはより一層、そんな自分を一気に褒めてもらえたような、讃えてもらえたような満足感を感じるのだ。これは私個人の独りよがりで、大きな勘違いであるかもしれないけど、もうそれでもいいよと思えてしまうからすごい。それでもいいよ、こんなに幸せだっておもえるんだから。

 

初日と2日目であまりにもたくさんのものをもらっちゃったから、このツアーが終わる時の寂しさ、せつなさをおもうとすこし怖くなってしまうけれど、でも、きっとこの旅が素晴らしいものになればなるほど、終わる寂しさは膨らんでいくんだろうなとも思うから、それでもいいと思う。

 

ああ、バンプオブチキンの音楽に出会ってから、「それでもいい」みたいなことをよく言ってしまう気がする。すごいことだな。さみしくても、それでもいいって。そんなさみしさと同じくらいの強さをもつ大切なことをたくさん知れたんだろうな。なんか泣けてきちゃった。

 

バンプオブチキンはすごい。
ほんとうにすごいよ。だいすき。

 

今回のツアーもきっと、たくさんの幸せな奇跡が起こる予感がしてやまない。それを同時間軸で一緒にすごせることをほんとうに幸せにおもう。


しっかり生きよう。
また会いにいくね。

 

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福島県へ 2017.7.21〜7.23

 

 大事な友達に会いに福島県へ行ってきた。

毎年3.11になるとニュースで大きく取り上げられる東日本大震災のこと。最近でも地震はたくさん起こるし、九州では豪雨の被害で今も大変な思いをしているひとがいるらしい。正直、あの東北の震災の光景は現実離れしすぎていてどうしても遠い場所で起こった過去のこと、というような感覚がどこかで私の中にあった。だから一度自分の目で実際に今の現地を見てみたいと思って、そのことを友達に伝えると快く案内するよ、と返事をくれて、車でいろんな話をしながらたくさんのものをみせてくれた。

 

富岡町夜ノ森の桜並木。

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震災前は毎年桜が満開になる4月に夜ノ森桜まつりが開催されていた。原発事故の影響で震災後は開催されていなかったけれど、今年は7年ぶりに開催されたそう。

震災前はこの並木道の両側に民家が並んでいて、私が今回会いに行った友達のお母さんもここで床屋を営んでいたそうだ(今はいわきの新しい家に移転し営業されている)。お母さんの仕事場でもあった彼女の富岡の家は、今年に入ってから取り壊して更地になっていた。そこにはこれから原発で働く人のアパートを立つそうだ。

 

この桜並木の周辺には原発事故による放射性物質の濃度の関係でところどころ立ち入り禁止のバリケードが立っていた。

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取り壊されていない民家はそのまま残っているけれど今は誰も住んでおらず、町全体の時が止まったように静まり返っている。並木道には蝉の鳴き声だけが不自然に響いていて、なんだか悪い夢の中にいるようだった。既に家を取り壊して更地になった土地や、もう長く手入れがされておらず生い茂る雑草に包まれた民家が立ち並んでいて、友達と2人でひとつひとつ見てまわった。

 

住宅街の歩道にも雑草がたくさん生えていて、地震で崩れたアスファルトやコンクリートもそのままになっている。

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伸び放題の雑草に包まれた道路標識もあった。

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友達が通っていた中学校。

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震災当日はこの中学校も卒業式だった。私も自分の卒業式後、家に帰ってテレビをつけたらあの信じられない光景が画面に映し出されたことを今でも覚えている。一緒に被災地をまわって案内してくれたその友達も卒業式のあと帰宅し家族みんなで過ごしているときに地震が来たんだと話してくれた。

校舎の廊下は埃だらけで、なにより衝撃を受けたのは体育館だった。卒業式の日飾られていた紅白幕や、ステージに吊るされた「祝 第64回 卒業証書授与式」の垂れ幕、国旗や校旗などが、そのまま残っていた。町の人が避難してきたときに使ったであろうストーブやポット、床に敷かれたビニールのブルーシート、パイプ椅子やポリバケツも当時のまま。埃だらけになっていたけど、さっきまでここに人がいたと、そう見えるほど生々しい当時の空気感までがまるまるそのままあの場所に佇んでいた。6年も、誰の手も加えられないまま残っている。ほんとうに衝撃だった。あの日から時間が止まっている、なんてテレビのドキュメントなんかでよく耳にしていたけど、あれはほんとうにそういうことだった。まさにあの空間だけが外の世界から取り残されている。今はもう町に人がいないから通う人もいなくて廃校になってしまったという。校庭には放射性物質の濃度を測定する機械が置かれていた。

 

 

他にも町周辺を車で走っていると至る所に震災の跡が見られた。

 

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雑草だらけで廃墟になっているホームセンター

 

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津波で壊れたまま残っている建て物

 

ほんとうは田んぼになるはずの畑が土壌汚染のため作物が作れなくなり手入れもすることができず雑草の草原になっていたり、汚染土の入った黒い土嚢が町のいろんなところに山積みにされていたりして、6年という月日が経ってもこれだけの跡が残るのかと考えさせられた。

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駅だった場所に積まれた汚染土の土嚢

 

被災地を見てまわってから、友達と友達のお父さんお母さんもいろいろと当時の話をしてくれた。極寒の中ガソリンをもらいに並ぶのがつらかったこと、お父さんは原発で働いてたということ。家族で避難するというときに 避難したら誰がこの仕事をするんだ と言ってお父さんは福島に残って仕事をしてくれたそうだ。それは娘として誇りに思うと、友達は言っていた。

 

それと、ふたりで被災地を車でまわっているときに話してくれたこと。原発反対のデモが嫌いだと。お父さんがその仕事をしているということもあって、やっぱり原発で働く人もいる。原発をなくしたらこんな事故は起こらないから安全かもしれないけど、じゃあその電気を今まで使ってたのは誰?原発がなくなったときそこで働く人の雇用は?そういうこともよく知らない、知ろうとしないまま脱原発を叫ぶのは見ていていい気はしないと話してくれた。

私もちゃんと知ろうとしていなかったかもしれないと、彼女の話を聞いていて思った。メディアのせいにするわけではないけれど、テレビの原発事故に関する報道をみていると原発は悪だという印象を受けかねないと思う。だけど、正直よくわからない。どうしたらいいんだろう。これからもっとちゃんといろんなことを知って、考えていかないといけない。私に直接できることはないのかもしれないけど、知っておかなければいけないことだ。

 

けれど彼女はこうも言っていた。地震があって中学校の友達とはバラバラになったり家を壊したりは悲しいけど、それがあったから避難先の札幌でも友達ができて、いろんな出会いがあって、今の自分がある。あのことさえなければって今も言ってる人もいると思うけど、自分はそうじゃないから。悲しいことばっかりじゃなかったよ、と。

私は被災した当事者でもなければ現地からもかなり離れたところに暮らしているからとやかく言えるようなことはないけど、そうやってまっすぐに言い切ってくれる彼女はほんとうにすごいと思う。彼女の家族も、あのときはほんとうにどうなるかとおもったよねえ と笑顔で話してくれた。被災したひとで、未だにそんなふうに笑って話せるような状況じゃない人ももちろんいると思うし、笑って話してくれる裏できっと私には想像すらできないような大変な思いをして今わたしの目の前にいてくれるのかもしれない、色んなひとのいろんな想いがある。私にはわからない。でも、少なくともこうしていろんな話を聞かせてもらえたこと、ずっと大事にしていきたい

 

 

被災したところ、悲しいきもちになってしまう光景もあったけど、素敵な場所もたくさんあった。

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三崎公園の潮見台から見る海、海水が綺麗でこの高さから水中の海藻も見える

 

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高速道路からみた海 すごく綺麗な青

 

美味しいパン屋さん、活気のある漁港、他にも素敵なところがたくさん。国道沿いも高い建て物が全然なくて空が広くて気持ちよかったな。

 

 遠い場所にひとりで行くと遠くで起こってる、自分には関係ないと思ってたことが身近に感じられる。自分ひとりで行けてしまう距離なんだということに気づくから。今さらだったかもしれないけど、実際に現地の今の状況を見られてよかったとおもう。友達やお父さんお母さんにも会えてほんとうによかった。お母さん、私が帰るときにまた来てねー!って抱きしめてくれた。みんなとてもあたたかくて素敵なひとたち。

 

あの地震で、みんないなくならないでくれてよかった。会えてよかった。距離は遠いけどちゃんと私もここで生きてる。

 

ありがとう、また来るね。

 

 

 

 

 

 

疲れたときに思い出す

SNSって、
たぶんもう辞めることはできない
クソだなこんなもの とかいいつつ未だに辞めることができない 寂しがりやだからだ
これって他者と繋がるためのコミュニケーションツールなんじゃなかったっけ コミュニケーションってなんだったっけ、どんどん寂しくなっていくのはなんでなんだろう
言葉をうまく使えているつもりでいるのは単なる思い込みで、持ち主不明の文字の羅列は腐って、理論武装とはよく言ったもんだなあとか思ったりする
たぶんその言葉は届かないとおもう それはきみのほんとうではないようなきがするから どっかからもってきた人気者の外側をひっぺがしてむりやり張り付けてる その張り付け方も雑だしそんな綺麗なだけのものは似合わないしすぐに剥がれ落ちちゃう でも
剝がれ落ちたら落ちたでそこに残るものはあるのかな

もうこんなことで人を嫌いたくない
優しくしてもらったこともある、実際に私の目の前に立ったときのかわいい笑顔も知ってる、なのにその笑顔の裏をみてしまったような気になって 憎い 裏切られた なんて思ってしまうときがある
ごめんなさい もうやめたい こんなの
実際にきみと会って、そのときにみつめた瞳の持つ色や 声の響き方のほうを私は信じていたい もうだめになっちゃったものもあるけど
表情や声をみてもきいてもいないのに たくさんの人の前で着飾ってるきみだけを見てきらいになるなんてあんまりだよ 私は酷いやつだ

だけど私は、そのひとの生い立ち 歴史 肉体 その全てを含んだ言葉というものをちゃんと聴いたことがある まさしくあれは、あのひとから出てくる言葉はほんもので、確かにそこに在って、触ることだってできた
すべてが辞書にのっている単語の組み合わせで、私もきみも同じことばを使う
だけどぜんぜん響き方がちがうんだよな
持ち主が明確にわかる 放たれてからも側にいて離れない 他の誰のものにもならない
それが声だとしても文字だとしても、その命が続いてきた時間だけ誠実にひたむきに生きてきたことが証明されているような
そんな言葉を持つひとがいる
それはやっぱり、そこらに溢れてるものとは格段にちがうんだよなあ

だからやっぱりもう、きみやきみの言葉のことは二度と信じることはできない

生きれば生きるほど、あんなふうな言葉に、人に出会いたい という思いがどんどん強くなる 私と同じものを信じようとするひとに会いたい、会って目を見て話がしたい

どんなに私の知らないところでひどいことをしたり言ったりしてても、この目でみたものしかほんものにならないんだ これはすごく大事で忘れたらいけないことだ

ここにいて
私の目の前で話すあなたが見たい
嘘はわからない

私だけが手に入れられるはずの ほんとう が、どこかにある

 

みんな毎日がんばって生きてる

 

 

 

 

 

やさしいひと

 

私があの夜、確かにうけとったもの
やさしい言葉とやわらかいひだまりみたいな眼差し 手のあたたかさ あなたと離れるのは寂しい と流してくれた涙が 今も確かな温度で私の中にも流れ続けている

 

私の生きた時間を4倍したって届かないその年月を生き抜いたあなたから何気なく零れ落ちたことばや仕草が、悲しみや寂しさの瀧をきっといくつも潜り抜けてきたことを証明していたように思います
私たちは何度顔を合わせても、いつもはじめましてだった
あなたは私の名前を覚えられない だから私は何度も名乗らなかったけれど、いつもちゃんと私のことをみてくれていた
学生じゃなくなってしまった、もう社会人なんだし、子供じゃいられない と悟った大人の顔を不器用に作ろうとする私のその青さを 慈しむようなやわらかい眼差しで いつもあなたは見つめてくれていたのではないでしょうか

 

お別れする前 あなたは裏の白い広告とマジックペンを私に渡して こうおっしゃった
“あなたの名前と住所をここに書いてちょうだい 私はすぐに忘れてしまうから 忘れないようにここに書いて”
きっと書いても忘れてしまうだろう でもいま目の前に確かにいるあなたがこうして私のことを思ってくれていることがなによりも尊いことに思えた
私は自分の名前を大きな文字で、よみがなもつけて、住所は町の名前だけ、そして最後にまた必ず会いましょうね と書いてあなたに渡した
私の下の名前を声に出して読んで かわいい名前ねえ と、褒められたのは私のほうなのに なぜかあなたはとても嬉しそうに笑ってくれた

 

あの広告の切れはしも今あなたの手元にあるのかどうかわからない 手元にあったとして、それに書かれた名前と、私の顔や一緒に過ごした記憶があなたの中に残っているか わかりません
けれど、私は忘れない
私は覚えておくことができる 幸いなことに
あんなにあたたかくやさしい言葉やきもちをもらったこと 一生失くすものかとあのとき心に決めました

 

あなたの部屋にある旦那さんの写真に供えていた飴やらチョコレートやらを、なにか形見になるものがあればよかったんだけど と言いながら丁寧に包んで渡してくれた、あれは未だに大事にしまってあります そろそろ夏だし溶けてしまわないか心配だけれど

 

また会いましょうと手を握り合った その “また”が来る可能性というのはどれくらいあるのか そんなことを思う
あなたはあとどれほどの時間を生きていてくれるのか 私はあとどれほどの時間を生きていられるのか
もしあなたが私の知らないうちにこの世界からいなくなってしまったとして 私に知らせが来ることはきっとない
また会いましょう の約束は宙ぶらりんで私だけが握りしめて生きていくのかな
先のことは考えたってわからないのですが


私は今という時を生きていて 幸せです、そのなかのいくらかはあなたがくださったものです

私のことを忘れてしまわれていても平気ですがただ、どうかあなたも、幸せでいてくださいますように

 

いつか必ずまた、会いたいです

 

会いたい