がくしゅうちょう

書いて残す

ひとのいやがることはしない

 

さっき、男女差別とか男女平等社会についてテレビの番組内で討論されているのをみた。正直、バカバカし過ぎて呆れてしまった。なんだかいろんなことを考えてしまって悲しくなる。

 

そりゃあそういう差別で苦しんでいるひとがいるなら助けられるべきだし、周りは手を差し伸べるべきだけど、そもそも言葉なんて受け取り方感じ方次第なのに、なんで当事者じゃないひとたちがそこまで騒ぎ立てる必要があるのか。

というよりああいう場で発言できるひとは、そこまでそのことに関して被害を受けていないひとばかりだと思う。

 

最近どの討論番組をみてもなんだか最終的に話の論点がずれてきて結局何がしたかったのかよくわからないまま、あたかも解決したような雰囲気だけ醸して終わるものばかりな気がする。

 

その番組で発言していた女性は、「“女のくせに”とか“女性なのにすごいね”とか言われると不快です」と言っていた。私個人としては、どう考えても過敏になりすぎているとおもう。

“女のくせに”というのに対して不快に思うのは、まあ分からんでもない。だけど“女性なのにすごいね”というのに関しては相手は褒めているわけだし、言葉の選び方の問題であって、不快に思うことなんてないと思う。「〜のくせに」というのは、べつにそれが女性だとか男性だとかじゃなくても誰だって不快に感じるはずだし。それに「女性だから」ということが「差別だ」という認識があることを知らなければそもそも不快だなんて思わないんじゃないか?それこそ、性別に関係なくいろんなことに関して差別はあるし、もともと人間の社会って他人との優劣を常に気にして生きていくもので、自分より劣っていると感じたものを見下さないと生きていけないのは普通のことだから、その対象がたまたま「男性からみた女性」だっただけでしょう、と。ではたとえば、「若いのにすごいね」とか「還暦をすぎたのにお元気ですね」とかも差別になる?発信者の本来伝えたかった気持ちは無視されて、言葉を慎めと責められる?相手を気軽に褒めることにすら心をすり減らさなければならなくなりますか?まったくよくわからない。やっぱりその対象に偶然「性別」が当てはまった時の言葉の響きとか、受け取り手の気持ちの状態に左右されているだけだ。

 

こんなによくわからなくて曖昧なことだらけなのに、法律とかであれこれ決まりさえ作って違反したものを罰すればなんとかなると、みんな本気で思ってるのかな。ばかみたい。ひとりひとり受け取り方はちがうのにひとつの法律でそれはもう細かく細かく縛り付けるから余計な不満がどんどん増える。もう、世の中の法律なんて、「人の嫌がることはしない」これだけで充分じゃないかと思うんですが...。

 

なんだか最近ネットでもテレビでも、他人の発言に対していちいち過敏になりすぎている。私もまんまとその罠にはまっていて過敏に受け取りそうになり、まずいまずい、と思考にブレーキをかけなおすことが多い。そもそも誰もが1人残らずいい思いができるわけがないなんてことは21年ちょっとしか生きていない私のような小娘にでも分かる。そりゃあみんながいろんなことに対して不快に思うことのない世界ができればそれにこしたことなんてなにひとつもないし私自身それを望むけど、そんなことができるならもちろんそんな討論で声を荒げる必要もなければ、自殺やいじめや、テロだって戦争だってとっくにないはずだし。発言は個人の自由だ、と声を荒げるひとがいる裏で、その大声にかき消された小さな声で叫ぶ人の自由が無視されてしまっている可能性だってあり得る。結局そんなもんなんだから。みんながみんな分かり合えるわけがないんだから。

 

だからって、みんなが幸せに過ごせることを諦めようってわけでは全くない。SNSとかの普及で情報過多になりすぎて、気にしなくてもいいことばっかりを気にし過ぎている。「顔も声も知らない、どこかにいる不特定多数の誰か」のことばかり気にし過ぎている。私もそうだと思う。だからもう、ただ、自分の近くにいる自分の大切な人のことだけ、ほんとうに幸せにしてあげたらいいんじゃないかなと思う。どうにもわかりあえない相手を攻撃してプラスになったことなんか今まで何ひとつなかったし、これからもないはずだ。

 

性別の関連でいえば、女男の問題だけではなくて、ゲイ、レズビアンバイセクシャルトランスジェンダーとか、私にもよくわからないカテゴリーが細かく存在している。最近、自分のことを話すとすぐ周りにカテゴライズされてしまう。その人はその人でしかないのに。そのカテゴリーに自分を入れることを上手く使えばコミュニケーションの良い入り口になることは確かにある。でもあまりにもそれに縛られると、何かの中に分類されてそれでもやっぱり微妙な違いに居心地の悪さが生まれ、差別だのなんだの、結局言い出すことになる。実際、被害を受けた側が自分で自分の首を絞めていることは稀じゃないと、私は思う。

 

私は私の考えで生きていくけど、意見の違う相手を攻撃しようとは思わない。分かってもらえなくて当然だから。自分以外の誰の気持ちもどう頑張ったって分からないし、分からないからなんとか少しでも近づきたいと思うし、そういうところから優しさとかは生まれるんじゃないかなと思う。こんなちいさい人間ひとりが助けられるものなんてほんとうに限られた数でしかないはずだしなあ。

 

ほんとうに大事なものは人は何だったか誰だったか、早く思い出さないと、たぶん取り返しのつかないことになっていくと思う。

 

難しいなあ。いや、たぶんほんとはもっと単純なはず。自分自身、完全に思考の泥沼にはまってしまっている。

 

私の大切な人たちが、どうか幸せでいてくれますように。