がくしゅうちょう

書いて残す

最近流行りのLGBT

 

最近、LGBTを理解しよう、というような運動がよくみられるようになった。同性婚もすこしずつ認められるような傾向もある。今まで大切な人と自分とのことを周りから認めてもらえず理不尽な対応を受け苦しんできた人たちにとっては、色々と難しいとはいえ少しずつでも生きやすい世の中に近づいてきているのかな、と思う。

 

でも正直、LGBTを支援しよう、理解しよう、みたいなことをテレビなんかで目にするたびにちょっとした違和感を感じてしまう。

 

世間一般で言われているLGBTであるが故につらい思いをしている人はたくさんいるんだろう。私自身、以前お付き合いしていたのは女性で、当時同性同士が付き合うということはまだ世の中では今ほど取り上げられていなかったし、はじめて感じる自分の心の動き方に毎日苦しみながらみえない正解を探すようにして生きていた記憶がある。

 

異性愛者を通常とするなら、その人たちからみると私はLGBTということになるかもしれないけど、私は自分のことをLGBTだと名乗ることはしないと思う。だって、いまだによく分からない。素敵なひとは男性、女性関係なく私には魅力的に映るし、それはきっと私だけじゃなくたくさんのひとがそうだと思うし、はたまたそれが恋愛感情に結びつくかと言われれば別の話になる。


生物学的にいえば確かに性別は男性・女性の2種類だけど、現代においてもはや心理面で考えられる性別は2種類だけじゃない。大袈裟かもしれないけれど、生きている人間ひとりひとりが別の性別を持っていると言っても過言ではないと思う。いまだに、心と身体の性が一致しないことや、同性同士で恋愛感情をもつことを病気のように言う人もいると思う、でもそんなことより相手の気持ちを考えようともせず身勝手に他人を傷つけるようなひとたちの心に病名がつかないほうが不思議だと、私は思っている。

 

あなたはLGBTなんだね、と言われて何に一番違和感を感じるかと言うと、こころの動き方や傾向に他人から名前を付けられ、それによって分類されることだ。もはや暴力だとさえ思う。
でも名前をつけることによって安心する人もいるってこともわかる。とくに、同性愛が世間で病気のように扱われることが多かったすこし前までの世の中ならなおさら。同性を好きになってしまった、これは病気だろうか。そんな不安を、“それはLGBTと言って、わりとたくさんのひとがそういう心を持っているよ” と、そんなふうに使われるべきで、名前をつけることのメリットはそういうところにあると思う。みえないものを他者に理解してもらうにはまず、言葉が必要なのは確かなことだ。


けれど周りが勝手に名付け、分類し、決めつけて、当の本人の心の奥だけがずっと違和感を持つようなことはあってはならないのではないかと思う。また、そうして傷ついたときにいつまでも被害者のような気持ちでいるのもすこしちがう気もする。自分のことを知りたい、伝えたいと思うのなら、その心にぴったりの名前を見つけられるまで自分で探すべきだし、他者に伝える必要がないのならそもそも名前なんていらないと思う。

 

また、世間に認められつつあるからといって、LGBTを名乗るひとたちが態度を大きくすることも控えるべきではないかと思う。もちろん差別によって理不尽に傷つけられたひとたちにとっては優しい世界であってほしい。だけど、認めてほしいと大きな声をあげるひとたちに隠れて、できればそっとしておいてほしいと思っているひとたちも必ずいるはずだし、やっぱりどうしても同性同士で恋人関係になることを嫌悪するひとはいるだろう。


それぞれが別々の心をもっていて分かり合える範囲には限界があるから、理解できないものを攻撃するんじゃなく、自分だけの大事にしたいものを尊重できる場所をひとりひとりが選んで生きていくことが必要になる。

 

LGBTのシンボルになっているものに、“虹”がある。レインボー。諸説あるようだけど、ゲイ、レズビアンバイセクシャルトランスジェンダーなど性の多様性を表しているらしい。LGBTを、そうでないひとたちが本当の意味で理解するということは、LGBTと呼ばれるひとたちだけじゃなくて、異性愛者や、同性愛を嫌悪するひとたちもその虹の中に含まれるということにみんなが気づくことではないかと思う。

 

なるべく悲しい思いをするひとが少なくなると良い。