がくしゅうちょう

書いて残す

かなしいことが起こる


数日前、たいせつな存在がまたひとつこの世界からいなくなってしまった。
とろけそうなほどやわらかく目尻が下がって、世界のやさしさをぜんぶあつめたみたいな笑顔がだいすきでたいせつだった。


もうそろそろみたいだよ、会いに行っといたほうがいいんじゃない、そう言われた日に限って。なんでもっと早く会いにいかなかったんだろう。なんかまだ、あの部屋にいけば、いつもみたいにやわらかくわらって、「いらっしゃい、また来てくれたの」って言ってくれるような気がするのに。


殴られても噛み付かれても怒鳴られても平気だった。認知症って病気だってわかっていたし、私は職員であなたは利用者だし、でもそれだけじゃなくて、ただただ、私はあなたのことがほんとうにだいすきだった。あの笑顔に見つめられるともう、心臓の奥の方からあたたかいもので満たされていくみたいな、ああ、癒されるってこういうことなのかって、それはあなたに出会ってはじめて手にしたこころの温度であったようにおもう。あの笑顔は無敵だった。あのあたたかさの前では、だれもなにも嘘がつけなかった、気がつけばあなたのまわりは笑顔であふれていた。先の長くない利用者さんのお世話をすることは私にとって仕事だから、いちいち心を痛めていては仕方ないんだって思われたって、私とあなたは職員と利用者であるのと同時に、人と人だ。


みんなの癒しだったあなたがもういない。二度と会えない。うそみたいだ。いつかいなくなるって知ってるつもりだったのに。はじめてあった時にはもうあなたは90も半ばだったし、先は長くないなんて、そりゃあ、もう、でも、仕事とはいえほぼ毎日身の周りのお世話をさせてもらってたら、ずっとこのままでいるような気がしてしまっていた。


世の中でそれはもう腐る程言われているであろう「失ってから気付く」ということも、実際に身をもって体験しないとほんとうの意味は分からない。この 身をもって体験しないと分からない、ということばですら言われ尽くしただろうに。すべてのことがそう、この手で触れて、耳で聴いて、感じて、心が動いて、それらを自覚してからやっと、自分のものになる。必ずいなくなる存在、あるいは既にいなくなった存在までもが私の中で呼吸をはじめて、手垢のついた陳腐な言葉にようやくほんとうの、たいせつな、私だけの意味がうまれるんだ。

 

会いたい時に会う、会えるうちに、生きているうちに、生きていてくれるうちに。そんなのわかってるけど、そうできないこともある。何度も何度も後悔する。これを教訓にして次こそは、とは別に思わない。きっと私は同じようなことを繰り返して後悔し続ける、その度にかなしんで、自分を恨んで、それでも生きていくんだな。次こそは、とかはもういらないんじゃないかな。あなたはひとりしかいないんだから、もう次はない。せめて、あなたにもらったものとか、あなたと過ごした時間のなかでみつけられたものが私の中になるべく長く生きていてくれれば、とおもう。

 

あまりにも大きな、それだけのことだ。