がくしゅうちょう

書いて残す

無意味

 

天気が悪いのが続いてるのと肌寒くなってきたのもあってほんとうに気が滅入っている。嫌いなひとが幸せそうに今も生きていることや、生活の中で目に入ってくる人間同士の摩擦みたいなもののことばかり考えてしまってゆっくり心が死んでいく感じ。すきなひとたちのことでも考えるか、と思って色々思い出して明るいこと考えようとしたのに極限まで気が滅入ってるせいでこの期に及んで友達の泣いていた姿や自分の傷ついたときのことばかり思い浮かべていてほんとうにどうしようもない。だからもうそういうののこと考える、嫌いな奴の顔を思い浮かべるより幾分ましだろうと思う。

自分の生きていることやっていることに意味なんてあるのかと泣いたひとがいた。そうやって私の前で涙をみせてくれたことこそがそのひとが生きているということを何よりも強く証明していたし、その涙に暮れる姿の奥に、燃えることをやめられない火がまだちゃんと灯ってるのを私は確かに見ていた。そのあかりを、あたたかさを、揺らめきをまもるために、私になにかできることがあるだろうか、怯えてしまわないようにそっと寄り添って、すこしでもその手よりも高い体温をもって、その肩だけにさらされているのであろう冷たい風を凌いでやることができたら。そう思ったけどそのやりかたがわからなかった。ごめんなさいとおもう。必死に生きている、生きようとする姿を私なんかにみせてくれたのに、なにも返すことができなかった気がする。
自分ですら「こんなこと」と言ってしまったことが、そのひとにとってどれほど大切なことだったか。ひとが涙をながすのは、死の一歩手前で起こる現象のように思う。そんなにも大きな現象を体が起こしているのに、それが「こんなこと」な訳がないのだ。
きっと冷たい風を、隣にいたって相手とまったくおなじ冷たさで感じることは不可能だとわかっている。私たちは絶対的に孤独でひとりで、だけどそれならすこしでも近づきたいし、願わくば同じだけ歩み寄って距離が縮まるその感覚を感じたい。たとえそれが自分ひとりの思い込みだったとしても、その安堵感だけできっと涙だって流せるし、このさきも生きていこうと思えるのだから。

昔大切に思っていた友達と喧嘩をしたとき、自分が使える言葉の無力さを痛いほど感じたままただその場に立ち尽くすしかなかったのを覚えている。話せば話すほど伝えたいことの核の輪郭はぼやけて遠ざかって途方にくれて、言葉のすきまで無意識に相手との距離を測ることに意識が向いていた。そしてその自分の行為にさえ傷付いて、そうやってつくった傷は今でもずっと残りあらゆる状況や記憶がある一点で交差したとき、身体のどこかもわからない場所(この場合 こころ なのかもしれない)が無意識に反応して、かすみつつある痛みをすこしだけ鮮明にさせる。
今のこの感覚を当時ちゃんと相手に伝える力を持っていたらわざわざお互いに傷つくこともなかったのかなとか、そんなことを考えている。なにも意味なんてない。

なにも意味なんてないな。