がくしゅうちょう

書いて残す

疲れたときに思い出す

SNSって、
たぶんもう辞めることはできない
クソだなこんなもの とかいいつつ未だに辞めることができない 寂しがりやだからだ
これって他者と繋がるためのコミュニケーションツールなんじゃなかったっけ コミュニケーションってなんだったっけ、どんどん寂しくなっていくのはなんでなんだろう
言葉をうまく使えているつもりでいるのは単なる思い込みで、持ち主不明の文字の羅列は腐って、理論武装とはよく言ったもんだなあとか思ったりする
たぶんその言葉は届かないとおもう それはきみのほんとうではないようなきがするから どっかからもってきた人気者の外側をひっぺがしてむりやり張り付けてる その張り付け方も雑だしそんな綺麗なだけのものは似合わないしすぐに剥がれ落ちちゃう でも
剝がれ落ちたら落ちたでそこに残るものはあるのかな

もうこんなことで人を嫌いたくない
優しくしてもらったこともある、実際に私の目の前に立ったときのかわいい笑顔も知ってる、なのにその笑顔の裏をみてしまったような気になって 憎い 裏切られた なんて思ってしまうときがある
ごめんなさい もうやめたい こんなの
実際にきみと会って、そのときにみつめた瞳の持つ色や 声の響き方のほうを私は信じていたい もうだめになっちゃったものもあるけど
表情や声をみてもきいてもいないのに たくさんの人の前で着飾ってるきみだけを見てきらいになるなんてあんまりだよ 私は酷いやつだ

だけど私は、そのひとの生い立ち 歴史 肉体 その全てを含んだ言葉というものをちゃんと聴いたことがある まさしくあれは、あのひとから出てくる言葉はほんもので、確かにそこに在って、触ることだってできた
すべてが辞書にのっている単語の組み合わせで、私もきみも同じことばを使う
だけどぜんぜん響き方がちがうんだよな
持ち主が明確にわかる 放たれてからも側にいて離れない 他の誰のものにもならない
それが声だとしても文字だとしても、その命が続いてきた時間だけ誠実にひたむきに生きてきたことが証明されているような
そんな言葉を持つひとがいる
それはやっぱり、そこらに溢れてるものとは格段にちがうんだよなあ

だからやっぱりもう、きみやきみの言葉のことは二度と信じることはできない

生きれば生きるほど、あんなふうな言葉に、人に出会いたい という思いがどんどん強くなる 私と同じものを信じようとするひとに会いたい、会って目を見て話がしたい

どんなに私の知らないところでひどいことをしたり言ったりしてても、この目でみたものしかほんものにならないんだ これはすごく大事で忘れたらいけないことだ

ここにいて
私の目の前で話すあなたが見たい
嘘はわからない

私だけが手に入れられるはずの ほんとう が、どこかにある

 

みんな毎日がんばって生きてる