福島県へ 2017.7.21〜7.23
大事な友達に会いに福島県へ行ってきた。
毎年3.11になるとニュースで大きく取り上げられる東日本大震災のこと。最近でも地震はたくさん起こるし、九州では豪雨の被害で今も大変な思いをしているひとがいるらしい。正直、あの東北の震災の光景は現実離れしすぎていてどうしても遠い場所で起こった過去のこと、というような感覚がどこかで私の中にあった。だから一度自分の目で実際に今の現地を見てみたいと思って、そのことを友達に伝えると快く案内するよ、と返事をくれて、車でいろんな話をしながらたくさんのものをみせてくれた。
富岡町夜ノ森の桜並木。
震災前は毎年桜が満開になる4月に夜ノ森桜まつりが開催されていた。原発事故の影響で震災後は開催されていなかったけれど、今年は7年ぶりに開催されたそう。
震災前はこの並木道の両側に民家が並んでいて、私が今回会いに行った友達のお母さんもここで床屋を営んでいたそうだ(今はいわきの新しい家に移転し営業されている)。お母さんの仕事場でもあった彼女の富岡の家は、今年に入ってから取り壊して更地になっていた。そこにはこれから原発で働く人のアパートを立つそうだ。
この桜並木の周辺には原発事故による放射性物質の濃度の関係でところどころ立ち入り禁止のバリケードが立っていた。
取り壊されていない民家はそのまま残っているけれど今は誰も住んでおらず、町全体の時が止まったように静まり返っている。並木道には蝉の鳴き声だけが不自然に響いていて、なんだか悪い夢の中にいるようだった。既に家を取り壊して更地になった土地や、もう長く手入れがされておらず生い茂る雑草に包まれた民家が立ち並んでいて、友達と2人でひとつひとつ見てまわった。
住宅街の歩道にも雑草がたくさん生えていて、地震で崩れたアスファルトやコンクリートもそのままになっている。
伸び放題の雑草に包まれた道路標識もあった。
友達が通っていた中学校。
震災当日はこの中学校も卒業式だった。私も自分の卒業式後、家に帰ってテレビをつけたらあの信じられない光景が画面に映し出されたことを今でも覚えている。一緒に被災地をまわって案内してくれたその友達も卒業式のあと帰宅し家族みんなで過ごしているときに地震が来たんだと話してくれた。
校舎の廊下は埃だらけで、なにより衝撃を受けたのは体育館だった。卒業式の日飾られていた紅白幕や、ステージに吊るされた「祝 第64回 卒業証書授与式」の垂れ幕、国旗や校旗などが、そのまま残っていた。町の人が避難してきたときに使ったであろうストーブやポット、床に敷かれたビニールのブルーシート、パイプ椅子やポリバケツも当時のまま。埃だらけになっていたけど、さっきまでここに人がいたと、そう見えるほど生々しい当時の空気感までがまるまるそのままあの場所に佇んでいた。6年も、誰の手も加えられないまま残っている。ほんとうに衝撃だった。あの日から時間が止まっている、なんてテレビのドキュメントなんかでよく耳にしていたけど、あれはほんとうにそういうことだった。まさにあの空間だけが外の世界から取り残されている。今はもう町に人がいないから通う人もいなくて廃校になってしまったという。校庭には放射性物質の濃度を測定する機械が置かれていた。
他にも町周辺を車で走っていると至る所に震災の跡が見られた。
雑草だらけで廃墟になっているホームセンター
津波で壊れたまま残っている建て物
ほんとうは田んぼになるはずの畑が土壌汚染のため作物が作れなくなり手入れもすることができず雑草の草原になっていたり、汚染土の入った黒い土嚢が町のいろんなところに山積みにされていたりして、6年という月日が経ってもこれだけの跡が残るのかと考えさせられた。
駅だった場所に積まれた汚染土の土嚢
被災地を見てまわってから、友達と友達のお父さんお母さんもいろいろと当時の話をしてくれた。極寒の中ガソリンをもらいに並ぶのがつらかったこと、お父さんは原発で働いてたということ。家族で避難するというときに 避難したら誰がこの仕事をするんだ と言ってお父さんは福島に残って仕事をしてくれたそうだ。それは娘として誇りに思うと、友達は言っていた。
それと、ふたりで被災地を車でまわっているときに話してくれたこと。原発反対のデモが嫌いだと。お父さんがその仕事をしているということもあって、やっぱり原発で働く人もいる。原発をなくしたらこんな事故は起こらないから安全かもしれないけど、じゃあその電気を今まで使ってたのは誰?原発がなくなったときそこで働く人の雇用は?そういうこともよく知らない、知ろうとしないまま脱原発を叫ぶのは見ていていい気はしないと話してくれた。
私もちゃんと知ろうとしていなかったかもしれないと、彼女の話を聞いていて思った。メディアのせいにするわけではないけれど、テレビの原発事故に関する報道をみていると原発は悪だという印象を受けかねないと思う。だけど、正直よくわからない。どうしたらいいんだろう。これからもっとちゃんといろんなことを知って、考えていかないといけない。私に直接できることはないのかもしれないけど、知っておかなければいけないことだ。
けれど彼女はこうも言っていた。地震があって中学校の友達とはバラバラになったり家を壊したりは悲しいけど、それがあったから避難先の札幌でも友達ができて、いろんな出会いがあって、今の自分がある。あのことさえなければって今も言ってる人もいると思うけど、自分はそうじゃないから。悲しいことばっかりじゃなかったよ、と。
私は被災した当事者でもなければ現地からもかなり離れたところに暮らしているからとやかく言えるようなことはないけど、そうやってまっすぐに言い切ってくれる彼女はほんとうにすごいと思う。彼女の家族も、あのときはほんとうにどうなるかとおもったよねえ と笑顔で話してくれた。被災したひとで、未だにそんなふうに笑って話せるような状況じゃない人ももちろんいると思うし、笑って話してくれる裏できっと私には想像すらできないような大変な思いをして今わたしの目の前にいてくれるのかもしれない、色んなひとのいろんな想いがある。私にはわからない。でも、少なくともこうしていろんな話を聞かせてもらえたこと、ずっと大事にしていきたい
被災したところ、悲しいきもちになってしまう光景もあったけど、素敵な場所もたくさんあった。
三崎公園の潮見台から見る海、海水が綺麗でこの高さから水中の海藻も見える
高速道路からみた海 すごく綺麗な青
美味しいパン屋さん、活気のある漁港、他にも素敵なところがたくさん。国道沿いも高い建て物が全然なくて空が広くて気持ちよかったな。
遠い場所にひとりで行くと遠くで起こってる、自分には関係ないと思ってたことが身近に感じられる。自分ひとりで行けてしまう距離なんだということに気づくから。今さらだったかもしれないけど、実際に現地の今の状況を見られてよかったとおもう。友達やお父さんお母さんにも会えてほんとうによかった。お母さん、私が帰るときにまた来てねー!って抱きしめてくれた。みんなとてもあたたかくて素敵なひとたち。
あの地震で、みんないなくならないでくれてよかった。会えてよかった。距離は遠いけどちゃんと私もここで生きてる。
ありがとう、また来るね。